「待つ」こと

 2008年12月18日にがん治療が始まってから、このブログに「待つ」という言葉が19回ほど使われていました。その使用頻度は多いのか少ないのか?(しかし、ブログとは便利なもので検索で自己分析もできますね)内容の多くは私自身が病院で待つ、回復を待つ、そして、智恵子が病院で私を待っているときに使われていました。
 約一年前の8月24日付ブログ「私、待つわ…」の頃は、すでに回復を「待ち」わびていた自分がいます。あれから一年経って、同じように病気の快復をまだ「待っ」てはいますが、それゆえに、健常では知る事のできない色々なことを経験し、考え、人と出会い、愛をいただいたなと…。「待つ」こと無しには得られないことだったんだなと今は納得しています。
 先週は体調の不安定さもあり、少しばかり「待ち」疲れを感じていましたが、週が明けて、本日ドクター・マタヨシのフォローアップを受け、何か特別な報告はありませんが、「待つ」ことを新たに確認しました。

(画像の無断転載を禁じます。すべての内容は日本国及びアメリカ合衆国著作権法並びに 国際条約により保護されています。Photo 〓 2010 Yasuyuki Kijima)


 「待つ」ことは、実は大切な概念、なんでも早急にというこの時代に「待つ」ということを受け取るのは尊いことですね。もし、聖書を「待つ」という言葉をキーワードに読めば、大変に多くの神のメッセージを聞くことができるでしょう。「信仰」も「希望」も「愛」も「祈り」も、「待つ」ということ無しには存在し得ないでしょう。